誰が書いたかは明らかになっていない、ある小説があった。  しかし噂が噂を呼び、その小説は売れに売れた。  その小説のタイトルは『アオの世界』という。


美佳「ねぇねぇ慎吾、この小説知ってる?」

慎吾「アオの世界? 知らんな」

美佳「大地さんに紹介されたんだけど面白いよ」

慎吾「へぇ……」

大地「慎吾も読んでみるといい」

慎吾「そんな面白いのか?」

大地「知る人ぞ知る名作と言われているな」

慎吾「誰が書いたんだ?」

大地「知らん」

慎吾「……いや、書いてるだろ」

大地「残念ながら書いていないんだ」

慎吾「どんな本だよ」

美佳「面白ければいいじゃない」

大地「その通りだ。内容はだな……」

慎吾「勧めておいて内容喋ろうとするなよ」

大地「少し喋った方が読む気になるかと思ってね」

慎吾「いいよ。貸してくれるなら読んで見るわ」

大地「うむ、いいぞ」

慎吾「どーも」


 この『アオの世界』はすでに絶版になっており、出版元の会社も潰れている。  つまり今、世に出回ってるのが全てだ。  その物語をここで少しだけ、簡潔に紹介したいと思う。







 あるところに二人の兄弟がいた。
 その兄弟の兄は本当に何でも出来た。
 世間的にも才能に恵まれて誰が見ても完璧な人間だった。
 一方、弟はどこにでもいるような平凡な人間だった。
 そのせいか弟は兄に対し劣等感を抱いていた。
 だから弟はひたすら兄みたいになりたいと純粋に憧れていた時もあった。
 だが弟は気づいた。
 自分は兄みたいになれないと。どんなに頑張っても届かないと。
 そう思うようになってから弟は何に対してもすぐ諦めるようになった。
 だが二人の兄弟は仲は悪くなかった。
 そしてこの二人の兄弟はある誓いを立てていた。
 いつの日か、誰もが幸せになれると言われる楽園に行く、という誓いだ。
 何だかんだでこの兄弟は考え方が同じだった。
 しかし二人の兄弟には大きな格差があった。
 弟からすれば兄はすでに幸せを掴んでいるのではないかと。
 社会的にも認められている兄はなぜそんな楽園を目指すのだろうか?
 弟はそんな兄に負けたくないと、自分も幸せになりたいと楽園を目指した。
 いつの日か二人の兄弟の誓いは形を変え、どちらが先に楽園に行けるか?
 そんな風になっていた。
 それから二人の兄弟は一緒に行動するのをやめた。
 それぞれがその楽園を目指した。

「お前は俺にないものを持っている。だが俺は負けない」

 何でも出来た兄が別れ際に弟に言い放った言葉だ。
 弟は不思議に思った。
 そして考えた。兄になくて自分にあるものとはなんだろう……と。
 しかし答えは出るわけがなかった。
 自分は置いて行かれる……兄はすぐに楽園に行ってしまう……
 そう焦った弟は兄にすがった。
 そんな弟を兄は笑った。

「そんなんじゃいつまで経っても楽園には行けないぞ」

 やっぱり兄はもう楽園に行く方法が分かってるんじゃないか?
 兄に劣等感を持つ弟は兄が許せなかった。
 自分は何もかも手に入れて、しかも幸せになる楽園にまで自分を置いて行こうとしていると。

「なんでだよ! なんで俺と兄貴はこんなに違うんだ!」

 弟は泣け叫んだ。
 ただひたすら悔しくて、情けなくて、そんな自分が嫌で……
 だがこの言葉に兄は反応を見せた。

「悔しかったらここまで来てみろ」

 そう言い、兄は弟の前からいなくなった。
 兄に置いて行かれた弟はもはや抜け殻のようだった。
 そんな状態の弟を助けたのは友人たちだった。
 あらゆる手を使って友人たちは弟を元気づけた。
 弟は次第に考えるようになった。
 本当の幸せってなんなのかを。
 今、こうして友人たちを笑っていられる時間って幸せじゃないのか、と……
 そう思った弟はもはや兄に対しての劣等感も楽園への思いも消えていた。
 そして弟は決意した。
 もう兄にすがるのも、楽園を追うのもやめる。
 自分の足で自分だけの幸せを見つけてみせると。
 自分だけの武器、信念を手に入れた弟は兄が最後に言い残した通り、兄のところへ行った。

「良くここまで辿りついたものだ」

 視線を変えず電子機器を見ながら近くに来た弟に以前と変わらぬ口調で話す。

「俺一人じゃここまで来れなかったさ」

 弟は今までのことを思い出すように目を閉じた。もう迷う必要などどこにもない。

「だが、どうあってもお前は俺を超えられない。お前に帰る場所ができようとな」

 電子機器を静かに地面に置き、弟の方を向き投げかけるような言葉を放つ。

「いや俺は負けない。俺の信念はそう容易く折れはしない」

 弟は拳を握り真っ直ぐに相手を見る。その目にはもう迷いはなかった。

「いいだろう。これが最後の勝負だ」

 弟はこれまでも諦めるようになるまでは兄に対抗していた。
 何度も何度もあらゆる勝負を挑み、そして負け続けた。
 だが今回だけは違う。
 信念を手に入れた弟の眼は今まで一番力強かった。

「楽園に行く決意が出来たってことか?」

「いいや、俺はもう楽園になんて行かない」

「なに?」

 弟の言葉に兄は僅かに動揺した。

「楽園になんて行かなくても人は幸せになれる」

「そんな紛い物の言葉が信念だというのか?」

 兄の鋭い眼光が弟を貫く。
 だけど弟も負けてはいない。
 真っ直ぐに力強く、その視線は兄を捉えていた。

「誰だって幸せを感じる権利は平等にあるはずだ」

「だったら楽園なんて必要ないはずだ」

「その通りだよ」

「なんだと?」

「楽園なんていらないんだよ」

「ふざけるな。俺は救われたいんだ」

 弟はこの時、初めて聞いた。
 兄の悲痛な叫びを……いや、声自体は普通だったが確かに感じた。
 兄は本当に救われたがっているんだと……

「兄貴、自分を救えるのは自分自身だけだ」

 弟はもう兄に劣等感なんて持ってはいなかった。
 もはや今の兄を見ていると何だか悲しくなるだけだった。
 そう兄も弟も救われたいだけなんだから……

「そんな楽園みたいなファンタジーにすがる方が間違ってるんだよ!」

 思わず兄は唇を噛んだ。
 弟はなぜこんなにも真っ直ぐにそんな言葉を言えるのか……
 恐れていたことが現実になりつつあった。
 弟は本当に自分にないものを持っているのではないかと。

「この状況下、お前を支えているものは一体、なんだっていうんだ?」

「小さな幸せだよ。さっき兄貴、言ってただろ? 俺には帰る場所ができた、それだけだ」

「だったら俺はどうすればいい!?」

「兄貴……?」

「帰るべき場所もない、孤独な俺は何を求めたら救われるって言うんだ!?」

 今度は間違いなく、悲痛な叫びだった。
 兄もただ一人の人間だった。
 弟は今頃になって理解した。

「言ったはずだ。自分を救えるのは自分自身だって。兄貴だって分かってるんだろ?」

「お前と同じ考えでなぜお前は幸せそうな顔が出来る!? なぜ俺が苦しまなければならない!?」

「そうだ。俺と兄貴は同じ考えだ。だけど求めるものが違ったな」

 兄はひたすらもがいて闇の中にいた。
 そして弟はひたすらもがいて光を見出した。

「もう終わりにしよう、兄貴。今の兄貴じゃどんなに頑張っても楽園にさえ行けない」

「ッ……!」

「じゃあな」

 弟は兄の前から立ち去った。
 弟の心は満たされていた。
 そして残された兄は泣き叫んだ。
 ただただ救いを求めた兄はその場に崩れ落ちたのだった。
 しかし兄は考えたのだった。
 楽園と言う場所は追い求め続けるからこそ楽園なのではないかと。
 そう思った時、ここに居場所はないと思った兄はひたすらに楽園を追い求めた。
 追い求め、追い求め、追い求めて兄は姿を消したのだった。
 その後、兄の行方を知る者は誰もいなかった。
 一方、弟は普通の生活に戻った。
 本当に平凡な生活。だけど弟は幸せだった。
 兄は弟より優れていたのに幸せを見つけられなかった。
 弟は兄より平凡だったが幸せを見つけられた。
 元々は同じ考え方だった二人。
 兄は何を求め、アオの世界を目指したのか。
 弟は何を感じ、帰る場所を見つけることが出来たのか。
 その兄弟の差は一体何だったんだろうか……

 最後に問いたい。


 この空の下、あなたには帰る場所はありますか?










 以上が『アオの世界』の一文だ。
 この小説内では兄と弟の決定的な違いは書かれていない。
 だた兄はひたすら楽園を目指した。
 そして弟は普通の生活の中で幸せを見つけた。


虹川「美穂子? 何、読んでるんだ?」

美穂子「アオの世界」

虹川「なぬっ?」

美穂子「椎名さんから借りたんだ」

虹川「(あの執事め……)」

美穂子「せっかく和幸からいい言葉教えてもらったからね。その元になった小説を読んでみたいと思って」

虹川「あ、そう……」

美穂子「でもなんか考えさせられるね」

虹川「そうだな」

美穂子「兄は何で楽園なんて求めたのかな?」

虹川「救われたかったんじゃないの?」

美穂子「凄い優秀だったって書いてあったじゃん」

虹川「社会的地位や世間体の問題じゃないんじゃないかな」

美穂子「そっか……」

虹川「でも帰る場所があるって凄い大事なことじゃないかな」

美穂子「……うん、そうだよね!」


 この『アオの世界』が世に出回って読んだ者の心を掴んだのが最後の一文だった。  『この空の下、あなたには帰る場所はありますか?』という言葉は強烈に印象に残ったという。


優都「救いか……僕にもあるのかな?」

麻衣子「あるに決まってるでしょ。あなたの人生、これからなんだから」

優都「救いの前に……僕は僕の記憶を探さなきゃいけないな」

麻衣子「記憶?」

優都「うん。分からないけど頭の中に浮かぶんだ。僕自身の記憶なのか分からないけど、感じたことない幸せの記憶を……」


 様々な人の心に救いとはなにか? 幸せとはなにか?  そんな風に問いかけた『アオの世界』は読んだ者を考えさせた。


鈴「何、読んでるんですか?」

翔斗「アオの世界ってやつ」

鈴「あ、私も読みましたよ」

連夜「意外ですね。翔斗さんが読書なんて」

翔斗「バカにするなよ。結構、読書は好きだぞ」

連夜「どんな話なんですか?」

鈴「あれ、読んだことないんだ?」

連夜「聞いたことはありますけど、知った時にはもう売ってなかったんで」

翔斗「ただただ救いを求めて楽園を目指す話だよ」

連夜「へぇ……救い、か……」

翔斗「心境的には朝里の当主みたいなのかもな」

鈴「救いを求める、か。そうかもね」

翔斗「だけど朝里のやってることを肯定する気にもなれないがな」

連夜「まぁ、そうですね」


 誰が書いたのかも、誰が出版したかも分かっていない。


初夜「人は誰もが救いを求めるものだ」

影巳「初夜様も、ですか?」

初夜「当たり前だろう? いや、むしろ人より救いを求めているかもしれないな」

影巳「そうなんですか?」

初夜「楽園……アオの世界とはよく言ったものだな」


 今一度、問おう。


 この空の下、あなたには帰る場所はありますか?




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