桜の花もピークを過ぎ、道端に埋め尽くすほどの花びらが落ちていた。
 日がでているものの、風も強く木々が揺られ、葉と葉が触れあい独特の音を出している。
 そんな中、一人の男がその音を聞き入るかのようにゆっくりゆっくりと歩いていた。
 男がふと木の根元をみると、そこにはビールの空きカンやらおかしの袋やら、挙句の果てにはブルーシートまで置いてあった。
 恐らく花見で盛り上がった後の残骸なのだろう。それから通り過ぎるほぼ全ての木の根元にはそれらが……人間が放置した物があった。
 今までこの通りを何百という数の人間がここを通ったことだろう。そう花見のシーズンなんて当に終わってる。
 それでも未だにこのような残骸が残っていた。誰一人としてここを通り人間はどうも思わないんだろうか?
 少し外の世界と関わってなかったが、そうそう人というものは変化があるわけではないと言うことを男は改めて思い知らされた。

「クッ……人っていうのは我が侭な生き物だぜ」

 それは楽しむだけ楽しみ、面倒な片付けは一切行わない人たちに言ったのか、はたまたかつての自分に言ったのかは誰も知るよしがなかった。
 男はそっと桜の木に近づくと、優しく木に触れそして目を閉じた。
 それはまるで木と会話してるかのように、木の思念を読み取ってるように見える。
 それから男は本当に木に向かって言葉を発していた。

「片付けてやりたいが、オレも行く場所がある。オレに残された時間は残りわずかなんだ。
ふっ……どんな言い訳を並べても結局は捨てていった人間たちと一緒だな。 ただ同じ人間として謝らせて欲しい」

 それに応えたわけではないだろう。風が吹いただけだろう。それでも木は強く葉を揺らした。その流れはまるで木とさえ意思の疎通が出来てるようだ。
 男は左手に持っていた花束から一輪を摘み、木の根付近の地にさした。その横にさっきまで持っていなかったが、どこからともなく現れたカップを置く。中には漆黒の闇が広がっていた。
 人間の身勝手な行動のせいで傷ついた木へのお詫びのつもりなのだろう。男はこの行動さえも自己満足に過ぎないことくらいわかっていた。木にとってはこれすらも迷惑なことだと。
 少し黙祷をし、花はそのままにカップだけを持ちその木から立ち去った。
 風がまた強く吹き、木はまた強く葉を揺らし、葉同士が触れ合う独特の音で男を見送った。







 またゆっくりと歩きながら、先ほど木にそなえたカップに口をつける。その漆黒の闇は飲んだ者の口内を地獄のような熱さと苦さで埋め尽くす。

「クッ……今日のゴドーブレンド107号もまた格別だぜ」

 彼自身がブレンドしたコーヒーのようで、その別格の苦さに満足しているようだ。
 ベンチに座ってこのコーヒーを堪能したいところだが、彼へ許された時間は限られている。さっき木を見捨てた理由も時間がないからだ。
 でも彼は行くべき場所がないのだ。どこかのギザギザ頭がとある言葉を叫ぶのが聞こえてきそうだが、彼は今迷っているのだ。
 それは「道に迷った」という意味ではなく「生きる意味」を求め、さ迷っている。それはなぜか?
 彼は一度死んだ身だからだ。コーヒーに毒をもられ、長い間ずっと眠りについていた。
 決して本当の意味で「死」を迎えたわけじゃない。奇跡的に朝一番、医者が入れたコーヒーの匂いで目を覚ました。
 皮肉にも眠らされたのもコーヒーなら助かるキッカケになったのもコーヒーだったというわけだ。
 しかし、彼が眠り続けた5年と言う歳月はとても長く、現実が彼に残していたのは絶望だけだった。
 最愛の人は亡くなっており、自分に死を見せた女は死刑判決を受けていた。愛した女は死ぬ前に、ちゃんと憎んだ相手と決着をつけていたのだ。
 彼の手にあった愛も復習も一気に消え去り、彼の手に残ったものは漆黒の闇が広がったカップだけ……

 それでも彼は新たに生きる意味を探した。
 そして愛した女の妹の危機を知り、また同時に彼女の弟子の存在を知った。
 彼はその妹を助けるため、更に彼女の弟子を気取ってるヤツを倒すため彼は生きるためにした。
 しかし、それも全て終えてしまった。結果的には妹を救うことが出来たのだが、そのために姉妹の実の母親を自分の手で殺めてしまった。
 決して母親を殺めるつもりで手を出したわけじゃない。ただ、とある理由でその母親には憎き女の魂が入り込んでいた。
 そう、自分の感情を抑え切れなかった。分かっているつもりだった、殺っても意味がない、死ぬのは体内に魂を取り入れてる母親の方だって……
 全てが終わって、彼は助けた妹にお礼を言われた。自分の復讐のために実の母が殺されたのに助けてくれたと信じて疑わなかった。
 人が良いと言ってしまえばそれまでだが、妹の強さは姉似だと思った。
 そして弟子の方は、とにかく納得が出来なかった。弱々しく頼りなさそうな男と言うのが第一印象で、髪だけはキザキザに尖がっていてそこだけはインパクトがあった。
 何にせよこんな男が彼女の弁護を受け継いでいるなんて思いたくなく、また彼女の弁護が出来るわけがないと思い込んでいた。
 だがそれは思い込みであって、現実は違った。
 男はしっかりと彼女の弁護を受け継いでいた。最後、彼には彼女の姿が重なって見えたから。
 二度目の人生として現代科学に縋り付き、醜い仮面をつけなければ生きていけない……それでも彼はこの二つの理由で「生」を選んだ。
 そしてそれも終えてしまった。この二つの理由でさえなくなってしまった彼はさ迷い続けている。
 生きる理由を探して…………
 いや、いっそ死んでしまうのも一つの手とも考えている。それは自分らしくないかも知れない。でも元々彼女のいない世界に未練なんてもんはない。
 そんな思いが交差し、彼は今も迷い続けているのだ。

 ゆっくりゆっくりと歩いたこの道も終わりが見えてきた。

「ん? 人か……?」

 前から人のような影がこっちに向かって歩いてくる。この先には人の霊を祭る場所……早い話、墓場だ。
 つまり前から歩いてくるのが人じゃないとすれば、幽霊となる。彼はそんなもん信じてはいなかったが。
 まぁ幽霊云々は置いといて、前から来るのは確実に幽霊ではなかった。
 逆光で顔までは確認できなかったが、来ている服は確認できた。それは服と言うより装束でかつかなり独特で、一度見ればそう忘れることはないと断言できるほどだった。
 段々近づいてきて、もう核心を得た。紫色の装束を纏った華奢な体にいつも眩しいほどの笑顔を見せている少女の姿がみえた。

「あれ、神乃木さん!?」

 相手も気づいたのか、名前を呼んできた。手を口にあて目を見開いていた。それほど驚いたのだろう。

「クッ……嬢ちゃんか、偶然だな。元気にしてたかい?」

「はい! それより神乃木さんこそどうしてここに? あ、お姉ちゃんに会いに来たんですか?」

「まぁそんなところだ……ちょうど良かった。これをチヒロに渡してくれるか?」

「え?」

 彼は手に持っていた花束を目の前にいる少女、真宵に渡した。渡らされた真宵は首をかしげ、頭上にはたくさんの?マークが見えるようだ。

「もうすぐそこじゃないですか。お姉ちゃんも神乃木さんに会いたいと思ってますよ」

「オレは元々、嬢ちゃんにすら会う気はなかったんだ。いや、会う資格すらオレにはないんだからな」

「もう! 何言ってんですか!? 神乃木さんは私を助けてくれた命の恩人なのに、会う資格がないなんておかしいですよ! そもそも会う資格ってなんですか!?」

「だがな、嬢ちゃん。オレはアンタの…………」

 それ以上、言葉が続かなかった。口を開いても言葉が出せない。エサを待っているコイみたいになってしまっていた。

「チ……チヒロ……」

「お久しぶりですね、神乃木さん」

 目の前には先ほどまでいた少女の姿はなくなっており、どう見ても別人の女性が立っていた。
 その女性は少女が着ていた紫色の装束を着ており全体的にキツそうなのは否めない。
 なぜこのような現象が起きてるかと言うと、それは少女の持つ力が関係している。
 少女は言わば霊媒師と呼ばれる者で、その体内に死者の魂を宿すと言う。オカルト好きしか信じないような力を持っている。
 だが少女の力は本物で、現に今彼の目の前にいる女性は昔、亡くなっているからだ。
 別に彼はそんな力を信じているわけではなかったが、昔愛した……いや今でも愛してる女性と今再び言葉を交わせることは悪いことではなかった。
 少し間のあと、先に口を開いたのは彼のほうだった。

「クッ……もう二度と話すことはないと思っていたんだがな」

「あら、それはこちらの台詞ですよ」

 千尋は微笑んで返答した。当時よりかなり大人っぽくなり、神乃木は軽く狼狽した。
 千尋が霊媒される時は死んだ時の年齢なのだがその時、神乃木はまだ眠っていた。神乃木が知っている千尋は24歳で弁護士としてはまだ卵だった。
 だが、今目の前にいる千尋は27歳ですっかり雰囲気が大人びていた。
 実際は初めて見たわけではないのだが、面と向かって話すのは初めてのことだった。

「妹がお世話になりました」

「クッ……礼を言われるようなことはした覚えはないぜ」

「命がけで守ってくれたって嬉しそうに言ってましたよ」

「クッ……よせやい」

 照れ隠しなのか、顔についている大きな仮面が横を向いた。千尋は神乃木の反応を楽しむかのように微笑んでいた。

「そう言えば神乃木さんはこれからどうするんですか?」

「ん?」

「また検事をやられたり、弁護士に戻られたりとか」

「ふっ、それも良いが元々検事をやり始めたのは、アンタの弟子である“まるほどう”を試したかったからだ。それも済んだ今、検事をやる意味なんてないさ」

 手に持っていたカップを口に運ぶ。

「あら、それはなるほどくんを認めてくださったってことかしら?」

 神乃木はゆっくりと首を横に振り、またカップを口に運んだ。

「オレは気に食わないヤツの名前はわざと間違えるんだぜ」

「ふふ、そうでしたね」

 ただ千尋は知っている。神乃木がちゃんと最後に“成歩堂龍一”と呼んだことを。きちんと認めてくれたからこそ『それも済んだ』と言ったんだと。
 しかしそうすると話は振り出しに戻ってしまう。

「オレは今迷っているんだ」

 神乃木はゆっくりと話し出した。その口調は切なく、いつもの自信が感じられなかった。

「憎むべき女も愛すべき女もいないこの世。これだったら目が覚めなきゃ良かったって思うこともあった。そして今もまた思っている」

「私の代わりに真宵やなるほどくんを見守ってて下さいよ」

「オレにそんな権利はないさ。それにあいつらはオレがいなくてもたくさんの仲間がいる」

 千尋の目には笑って話している神乃木が見えた。仮面で表情は見えないし、声はいつもと変わらない淡々とした話し方だが、とても満足しているかのように千尋には思えた。

「アンタの妹も弟子も大したヤツだよ」

「それはもちろん。私は神乃木荘龍の一番弟子ですからね」

「おいおい、弟子をとった覚えはないぜ」

 二人は同時に頬が緩んだ。

「あいつらにはあいつらの道がある。オレはそれに関わりたいとは思わない。せいぜい次世代に新しいストーリーを紡いでくれればいいさ」

 神乃木はコーヒーカップを口につけ、さっきまでと違い少し深く飲んでいる。残りがわずかなのだろう。

「あ、そう言えば……」

 千尋は手に持っていた花束を見て、両手で優しく持ち直した。

「これ、神乃木さんですよね。ありがとうございます」

「せめてものプレゼントさ」

 千尋を笑顔に満足そうに微笑み、コーヒーを……漆黒の闇を飲み干した。
 軽く互いの口の動きが止まった。その時、納まっていた風がまた強く吹き出した。
 神乃木は風が時が来たと教えてくれるように思えた。そして口を開いた。

「チヒロ……最後にお前に会えて良かった。決心がついたよ」

「そう……アナタが決めたことなら私は止めないわ」

 神乃木の口調で千尋には神乃木の考えが察しがつき、少し顔を俯かせた。神乃木の考えが分かっていても、本心では止めたいと思っていても、千尋には自分の気持ちを正直に口に出すことは出来なかった。
 それは千尋はすでにこの世にはいない……死者となってしまっているから。
 『死者は生きているものに手出しされない』
 その言葉は神乃木と成歩堂が戦った最後の裁判で出た言葉だ。この言葉を逆転させると……
 『死者は生きているものに手出ししちゃいけない』となる。
 だから千尋は、ただ神乃木の言葉を受け止めるしか出来なかった。……かつての恋人として。

「ありがとう、チヒロ。……“また”な」

「……はい、“また”」

 千尋はまた自分がいるべき場所に戻っていった。そして神乃木の目の前には先ほどまでの少女の姿が。
 まだ意識がはっきりしてないのか、目が半開きで場所を確認するように辺りを見渡していた。

「嬢ちゃん、ありがとな」

 少女の頭を二回ほど軽く優しく叩くと、足元に手に持っていたものを置き、そのまま立ち去った。







 その後、神乃木荘龍の姿を見たものは誰一人としていない。ただ一つの手がかりはあの時少女の足元に置かれた遺留品。
 意識がはっきりとした少女がふと地面から何かが光っていることに気づき、下を見た。
 そこには『中身が入っていないコーヒーカップ』と『三本線の赤い光』が少女のことを見上げていた。





〜Fin〜










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