託した記憶、紡いだ未来


 虹川和幸と千葉美穂子が出会ったのは1997年、虹川が高校2年生の時だった。


虹川「だぁぁぁっ! 瀬沼先輩、ストップ、ストップ!」

瀬沼「ビビるな、虹川!」

虹川「ビビりますよ! っていうか坂でこんなスピード出さないでくださいって!」


 自転車に先輩と2人乗りをしていた。  もちろんハンドルは瀬沼という先輩が握っていた。


虹川「カーブ、カーブ! このスピードじゃ曲がれないですよ!」

瀬沼「ふっふっふ、俺のドライビングテクなめるなよ!」

虹川「この間、失敗してガードレールに突っ込んだじゃないですか!」


 瀬沼は野球部の先輩であり、先輩の命令は絶対ってことで乗せられている。  ちなみに過去、同じことをして失敗しガードレールに突っ込んだ。  そこは今、すっかりと凹んでいた。


瀬沼「必殺! 急転キックターン!」

虹川「うわぁっ!?」


キキィッ!


瀬沼「うりゃあっ!」


ガンッ!


 急ブレーキをかけ、ハンドルを切った。  そしてガードレールの凹んだところを足で蹴って見事直角に曲がった。


瀬沼「どうだぁ!」

虹川「って先輩、前ぇっ!」

瀬沼「えっ!?」


ガシャアァンッ!


 しかしすぐ目の前に車が来ており、見事に正面衝突し事故った。


瀬沼「痛たたた……生きてるか?」

虹川「何とか……」

運転手「君たち、大丈夫か!?」

瀬沼「はい、打撲程度かと」

運転手「まったく……ここ事故が多いんだから飛び出すな」

瀬沼「すみません」

虹川「だから言ったじゃないですか……」

美穂子「あの、どうしたんですか?」

運転手「あ、美穂子様、外に出てはいけません」

瀬沼「って、なっ!? リムジンじゃねぇか!?」

虹川「あーあ、傷ついちゃってますね」

瀬沼「修理代ってどのぐらいかかります?」

運転手「修理代はいい。これからは気をつけるように」

瀬沼「は、はい。ありがとうございます」

美穂子「あの、ケガしてますね?」

虹川「あ、これぐらい大丈夫です。動きますし」

美穂子「ちょうど病院行くところなので一緒に乗せてってはどうです?」

運転手「しかし……」

美穂子「あたしの命令ですよ?」

運転手「すみません、失礼しました!」

美穂子「ふふっ、冗談ですよ。でもそれじゃあ行きましょうか」

虹川&瀬沼「………………」

美穂子「どうしました?」

瀬沼「いや、こんな汚い恰好でリムジンになんて乗れません」

美穂子「遠慮しなくていいですよ?」

瀬沼「ケガも大したことないですし」

虹川「それより早く行かないと完全に遅刻ですよ。赤槻との試合なんで」

瀬沼「だよな。というわけで俺らはこれで」

美穂子「試合? 試合ってなんですか?」

虹川「えっと野球やってるんでその試合ですね」

美穂子「やきゅう……」

運転手「美穂子様、そろそろ行かないと……」

美穂子「乗ってください。急いでるならお送りしますよ」

虹川「えっ!?」

運転手「美穂子様!?」

美穂子「少し話してみたいなって思って。ダメですか?」

運転手「……分かりました。じゃあ君たち、乗ってくれ」

瀬沼「はぁ……」

虹川「し、失礼します」

美穂子「ふふっ、どうぞ」


 これが虹川と美穂子の初めての出会いだった。  2人は緊張しながらリムジンに乗った。  そして着くまでの時間、美穂子と少し会話をした。


監督「おせーわ!」

虹川&瀬沼「すみませんでした」

月見里「しかしリムジンに乗って来るとは豪勢だな」

虹川「それは話せば長くなるんですが……」

監督「さっさとアップして出る準備しなさい」

虹川「は、はい!」


 車で飛ばしてもらったが試合には遅刻。  監督に大目玉を食らった2人だった。


美穂子「ふふっ」

尋嗣「今日はご機嫌ですね、美穂子様」

美穂子「えぇ、病院行く途中で面白い方々と少し話をしたんです」

尋嗣「へぇ、そうなんですか」

美穂子「その方々、野球をやってるって言ってました。お父様が好きなスポーツですよね?」

尋嗣「そうですね」

美穂子「ふふっ、やっぱり家族以外の方と話すのって楽しいです」

尋嗣「それは良かったですね」

美穂子「はい! それで聞いた話だと……」


 美穂子は今日の出来事を側近の執事に話していた。  新鮮で楽しかったらしく、虹川たちと話した時間は僅かだったが  その僅かな時間で話したことを余すことなく執事に教えていた。


…………*


 虹川と美穂子のファーストコンタクトは夏の前。  虹川的に言うと野球の夏の大会前の話だ。  そして再会したのが夏の大会を終えた後だった。


虹川「くそー……皆、俺に恨みでもあんのかよ……」

月見里「恨みっていうな。キャプテンとしての責務だ」

虹川「皆、会いたくないからキャプテンにならなかったんしょ?」

月見里「キャプテン決める日に熱出して休むお前が悪い」

虹川「あれは瀬沼先輩が余計なことしなければ!」

月見里「来た以上は諦めろ。俺だって嫌だっつーの」

虹川「はぁ……」


 今、新旧キャプテンである月見里と虹川は通称クドクド爺さんの元へ見舞に来ていた。  直接的に関係はないため、簡単にどんな人物と見舞いに経緯を話すと……


虹川「何で監督もあんな厄介な人を……」

月見里「あの人のおかげでうちの野球部もそこそこ強くなったんだろ」

虹川「コーチとしては良いと思いますけど、しつこくてうるさいんですもん」

月見里「まぁな」


 元々、高校の監督が顧問兼任だったことも受け、監督がコーチとして連れてきた人物だった。  近年、病で倒れてしまい入院することになってしまった。  それ以来、大会の報告云々を話にキャプテンが行くことが通例となっていた。


月見里「ここまで来たら小一時間は覚悟しろよ」

虹川「はーい……」


 それから通称クドクド爺さんの病室に行き、小一時間ほど話に付き合わされた二人。  更に試合のビデオも持っていったため、その練習指示や説教を更に虹川だけ付き合わされた。


虹川「月見里先輩め、最初からこうするつもりだったな……」


 月見里は早い段階で『自分たちは引退の身。残る虹川キャプテンのために練習指示をお願いします』などと言い、帰った。  完全に虹川をダシにして逃げるつもりだったみたいだ。


虹川「でもまぁいいや。終わったし、帰るかな……っとあれ?」

美穂子「………………」

虹川「あれ、リムジンの娘じゃないかな?」

美穂子「………………」

虹川「………………」


 虹川の視線にふと入ったのは夏の大会前に練習試合に向かってる時に  ぶつかったリムジンに乗っていた娘だった。  病院の花壇に咲いている花を見て一人微笑む彼女は虹川にはとても可愛く見えた。


美穂子「あれ、あなたは?」


 視線に気づき、美穂子が虹川へ視線を向けた。  話しかけて、見惚れていた自分に気づき一瞬戸惑ったが  すぐに現実に戻ってきて、言葉を繋いだ。


虹川「覚えてるかな? ちょっと前にリムジンに乗せてもらったんだけど」

美穂子「あ、もちろんです。野球やられてた方ですよね」

虹川「そうそう」

美穂子「そちらこそ良く覚えてましたね」

虹川「まぁ、リムジンに乗る機会なんて今後もないだろうからね」

美穂子「そうなんですか?」

虹川「そうなんですかって……」

美穂子「ごめんなさい。ちょっとあたし、ちょっと世間知らずで……」

虹川「(自分で言っちゃう、普通?)」

美穂子「あの車、皆さん乗られないんですか?」

虹川「まぁ、一般的にはよほどじゃないと乗ってる人いないんじゃないかな?」

美穂子「そうなんですか」

虹川「そういやあの時も病院に行くって言ってたけど誰か入院してるの?」

美穂子「え?」

虹川「あ、ゴメン。立ち入ったこと聞いちゃったかな」

美穂子「いえ、大丈夫ですよ。私が通ってるんです」

虹川「え?」

美穂子「先天性の疾患を持っていて、定期的に病院に来なければならないんですよ」

虹川「あ、そうなんだ……何かゴメンね」

美穂子「え?」

虹川「いや、そういうことってあんまり喋りたくないものじゃないの?」

美穂子「ん〜、そうなのかな? 分かんないや」

虹川「――ッ……」


 ニコっと笑う美穂子に一瞬空気の流れが止まった。  それは虹川にとって十七年生きてきて、初めての感覚だった。


美穂子「あなたはどうして病院に?」

虹川「あー……ちょっと部のコーチだった人が入院しててね。そのお見舞いかな」

美穂子「あ、そうなんですか。じゃあ何回か来られてるんですか?」

虹川「まぁ……大会後は一応報告もあるし来てるんだけど正直会いたくない人なんだよね」

美穂子「どうしてですか?」

虹川「ちょっと高圧的というか言い方が嫌味っぽいんだよね。だから面と向かっては話したくないと言うか……」

美穂子「そうなんですか。大変ですね」

虹川「まぁ、コーチとしては世話になった人だからね。無下にも出来ないんだけど」

美穂子「じゃあ近いうちにまた来るんですか?」

虹川「いやいやいや、そんな頻繁には来ないよ」

美穂子「あ、そうなんですか……」

虹川「あ、君はいつ病院来てるの?」

美穂子「え?」

虹川「この間のお礼もしてなかったしね。今日は時間がないけど良かったら今度、お礼させてよ」

美穂子「そんな、お礼だなんて……悪いのはこちらですし」

虹川「いや……悪いのは百パーこっちだから……」

美穂子「なのでお礼と言わず、純粋に会って頂けませんか?」

虹川「え?」

美穂子「ダメ……ですか?」

虹川「え、あ……もちろんいいよ」

美穂子「本当ですか?」

虹川「もちろん。それで君はいつ来てるの?」

美穂子「基本的には火、木、土です」

虹川「あ、時間帯は?」

美穂子「午前中ですね」

虹川「あーそうか……休み中は良いけど、学校始まったら中々に厳しいな」

美穂子「土曜日は無理ですけど火、木は時間ずらせますよ」

虹川「ほんとに?」

美穂子「えぇ」

虹川「その辺は学校始まってからだけど調整できそうだな。良し、じゃあこれから出来るだけ来るようにするよ」

美穂子「楽しみにしてますね」


 こうして再会した二人は友人として関係を深めていった。  しかし虹川はこの時、まだ知らなかった……  美穂子の体がどのような状態なのか……そしてその先が後僅かなことも……


美穂子「ふふっ」

亜沙子「どうしたの、美穂子。ご機嫌ね」

美穂子「うん。お友達が出来たの」

成仁「ほぉ、病院でか?」

美穂子「知り合ったのは病院だけど普通に元気な人だよ?」

亜沙子「そうなの。是非、紹介してほしいわね」

美穂子「うん! 今度、誘ってみるね」

麗美子「その人って男性?」

美穂子「そうだけど?」

成仁「何っ!?」

麗美子「お父さん、敏感すぎ」

成仁「優都くん以外に男の友達が出来たって言うのか!?」

美穂子「そうだけど……え、ダメ?」

成仁「ダメではないが……う〜む……」

美穂子「え? え? え?」

亜沙子「もう、美穂子が困ってますよ」

成仁「本当に信頼できる人なんだね?」

美穂子「え? あ、うん。面白いし優しい人だよ?」

成仁「やっぱり1度会ってみたいものだな。椎名!」

尋嗣「はっ」

成仁「時間を作れ。1度会って話をしてみたい」

尋嗣「分かりました。美穂子様が病院に行ってる時、会ってるそうなのでその時間帯に空きを作ります」

成仁「うむ、頼んだ」

麗美子「えー、その時間帯だと私、仕事なんだけど?」

成仁「我慢しなさい」

麗美子「自分ばっかりズルイなぁ」

亜沙子「ふふっ、楽しみね」

美穂子「えーっと? 和幸くんを家に招くってことでいいの?」

成仁「あぁ、その通りだ。しっかり見極めさせてもらおう」


 こうして美穂子の話を聞いて親である成仁、亜沙子は虹川と会ってみることになった。  しかし忙しいためなかなか時間が作れず、実現したのは  秋も近づき、地面に落ち葉が目立ってきた頃だった。


成仁「やっと時間を作れたか」

尋嗣「なかなか相手都合もありましたからね」

亜沙子「でもほんと美穂子、元気になりましたね」

成仁「そうだな。美穂子の様子を見ても心配はいらないだろう」

尋嗣「でも会われるんですよね?」

成仁「お願いをしようと思ってる」

尋嗣「お願い、ですか?」

成仁「もし会っていい人なのが分かり、その和幸くん次第だが美穂子の傍にいてくれるように、な」

尋嗣「――!」

亜沙子「美穂子にとっての幸せを考えて、ね」

尋嗣「相手はまだ高校生ですよ?」

成仁「分かってる。だが美穂子も先は長くないだろう。少しでも人としての幸せを与えたいんだ」

尋嗣「……そう、ですね」

亜沙子「まぁ、どちらにせよ和幸くん次第ですし、まずは話してみないと何とも言えないけどね」

成仁「じゃあ早速、今日分の仕事終わらせよう。椎名、お前は段取り通り頼む」

尋嗣「分かりました」


 こうして今日は通院日。  美穂子が嬉しそうにリムジンに乗り込む。


尋嗣「美穂子様」

美穂子「あれ、椎名さん、どうかしたんですか?」

尋嗣「今日、虹川様をお連れするように成仁様に言われました」

美穂子「あ、そうなんだー」

尋嗣「なので美穂子様も終わり次第、帰って来てください」

美穂子「うん、分かった。和幸くんは椎名さんが連れてくるってことだよね?」

尋嗣「はい、その通りです」

美穂子「そっかそっか。楽しみだなー」

尋嗣「ではまた」

美穂子「はーい」


 美穂子を乗せたリムジンが走り出してその後ろを尋嗣が追った。  そして病院に着き、美穂子は病院内へ。  尋嗣はいつも虹川と美穂子が待ち合わせをしている2人が再会した花壇へ向かった。


尋嗣「(あ、いましたね)」

虹川「………………」


 気づいてそうな雰囲気の虹川に対し近づいて確認を取る。


尋嗣「虹川様ですね」

虹川「そ、そうですが何で俺の名前を?」

尋嗣「わたくし、美穂子様の執事をしています、椎名と申します」

虹川「はぁ……」

尋嗣「美穂子様とのことでお話があります。来ていただけませんか?」

虹川「美穂子ちゃん、今日は来てないんですか?」

尋嗣「いえ、普通に診察を受けてます。ただ虹川様を家に招待する段取りなので終わったら家に帰ってもらうことになってます」

虹川「段取り、ですか」

尋嗣「もちろん強制ではないです。ご都合もあると思いますが」

虹川「いや、別にいいけど話ならここでもいいんじゃない?」

尋嗣「正確に言えば私が用事があるわけではありません」

虹川「へ? じゃあ誰が?」

尋嗣「ご当主がお呼びされた次第です」

虹川「ご当主……って?」

尋嗣「簡単に言ってしまえば美穂子様のお父様ですね」

虹川「えぇっ!? な、何で!?」

尋嗣「わたくしの口からは言えません。直接、お話しくださいませ」

虹川「怒られない?」

尋嗣「さぁ? わたくしは何とも……」

虹川「拒否権はあるんだよね?」

尋嗣「ありますが行くと言った手前、やめるのは男としてどうかと……」

虹川「………………」


 結局、虹川が折れて人生二度目のリムジンに乗り込んで家に向かった。  広い広い敷地内を歩きながら虹川の緊張度が上がっているのが尋嗣には分かった。


尋嗣「別に取って食われるわけじゃないんですから」

虹川「そういう問題じゃないです」

尋嗣「彼女のお父様に呼び出される彼氏の心境とはいかがなものですか?」

虹川「付き合ってません」

尋嗣「おや、そうでしたか。これは失礼」

虹川「……美穂子ちゃんがそう言ってたの?」

尋嗣「いえ、私の独断と偏見です」

虹川「………………」


 尋嗣にからかわれながら虹川は案内されるまま歩き続けた。  一方、同時刻、病院にいる美穂子は診察を終えてある病室を訪れていた。


美穂子「優都くん」

優都「あ、美穂子さん」

美穂子「調子はどう?」

優都「まずまずですかね。ちょっと左目が見づらくなってきましたけど」

美穂子「そっか……」

優都「美穂子さんの方はどうです?」

美穂子「私は元気だよ!」

優都「そうみたいですね。何かいいことありました?」

美穂子「えっ? わ、分かるの?」

優都「長い付き合いですよ。最近、表情が明るいなっと思ってました」

美穂子「そっか。優都くん以外にも友達が出来たんだ」

優都「へぇ、そうだったんですか」

美穂子「今日、家に招待するつもりなんだ。今度、優都くんにも紹介するね」

優都「はい、楽しみにしてます。いい人ですか?」

美穂子「うん! 凄く優しい人だよ!」

優都「それは良かったですね」


ガラッ


麻衣子「あら、美穂子ちゃん、来てたの?」

美穂子「こんにちはー」

優都「美穂子さん、友達が出来たみたいですよ」

麻衣子「もしかして花壇のところで話してた彼?」

美穂子「あ、見てたんですか?」

麻衣子「美穂子ちゃんも隅に置けないなって思ってたわ」

優都「あ、男の人なんだ。美穂子さん、その人のこと好きなんですか?」

美穂子「うん、好きだよ」

優都「……どうしよう、お母さん」

麻衣子「ここまで天然だともはや武器ね。私の大切な友達も最初、こんな感じだったけど」

美穂子「え?」

優都「でもそれならほんと、一度会ってみたいです」

美穂子「うん! 今度の通院日に一緒に来るね」

優都「はいっ」

麻衣子「あれ、もう行っちゃうの?」

優都「今日、その彼を家に招待するみたい」

麻衣子「あら、そうなの? じゃあ早く帰らないとね」

美穂子「じゃあお邪魔しました。優都くん、またね」

優都「はい、また」


 美穂子が昔、入院中に知り合った優都の病室を後にし、美穂子も帰路についた。  場面戻って虹川は尋嗣に連れられ、美穂子の両親が待つ部屋の前まで来ていた。


尋嗣「つきました。準備はいいですか?」

虹川「え、あ、ちょっと待って」

尋嗣「待てません」


コンコンッ


虹川「(じゃあ聞くなっ!)」

尋嗣「椎名です。虹川様を連れて参りました」


 中から入れ、という言葉が聞こえると共に扉が開いた。  両サイドにいる椎名と名乗る執事を同じ格好の男性二人が虹川が入った瞬間、同時に頭を下げてきた。


成仁「ご苦労、椎名。虹川和幸くんだね」

虹川「は、はい!」

成仁「わざわざ来て頂いてすまない。私は千葉成仁。美穂子がいつもお世話になっているようだね」

虹川「いえ、とんでもないです」

亜沙子「ふふっ、美穂子が言ってた通り、優しそうな方ですね」

虹川「えっと初めまして……あの、用件というのは?」

成仁「単に私たちは話がしてみたかったんだ。そう身構える必要はない」

虹川「はぁ……」

亜沙子「私は美穂子の母の亜沙子よ。よろしくね」

虹川「あ、よろしくお願いします」

成仁「和幸くんは確か高校生だったね?」

虹川「はい。大允規高校に通っています」

成仁「部活は何かやっているのかね?」

虹川「あ、野球をやってます」

成仁「おぉ、いいな。ファンチームとかあるのかね?」

虹川「ん〜そうですね。やっぱり一番最初に知ったってこともあって巨人は好きですね」

成仁「なるほど。私も巨人は好きだよ。強い時代も知っているしな」

亜紗子「年齢がバレますよ」

成仁「別に隠したって仕方ないだろ」


 成仁の豪快な笑いが部屋に鳴り響く。  その横で亜紗子も微笑んでいるがその二人を前に虹川は冷や汗をかき続けていた。  そんな虹川を後ろから見て内心笑っていた執事の椎名が助け舟を出した。


尋嗣「成仁様、亜紗子様、そろそろ本題に入られてはいかがでしょう?」

成仁「ん? そうか?」

尋嗣「虹川様だってお忙しい身。今も部活動の練習時間を割いて来て頂いているのですから」

虹川「(知ってて連れて来たのか、この人……)」

成仁「おっとそうだな、すまんすまん」


 笑っていた成仁が執事の椎名の言葉で真面目な顔に変わった。


成仁「和幸くん、これから言うことは他言しないでほしい」

虹川「は、はい」

成仁「美穂子がなぜ、病院に通っているか知っているかね?」

虹川「いえ……美穂子ちゃ……いや、美穂子さんも言いませんし、あえて聞かないようにしてました」

成仁「そうか……まぁ聞かれても美穂子も中々答えられないだろう」

亜紗子「あたしたちにも明確な答えを言えないものね」

虹川「それって……どういうことですか?」

成仁「美穂子が原因不明の不治の病にかかっている。先天性のな」

虹川「先天性……生まれつきってことですか」

成仁「そう。体の筋肉が自然と衰えていくと言ったら良いのかな?」

虹川「え?」

亜紗子「いつ体が動かなくなってもおかしくないそうよ」

虹川「えっ!?」

亜沙子「最初は身体を動かす筋肉から……そして動けなくなったら臓器にもダメージがいくと言われています」

虹川「そ、そんな……美穂子さんは分かっているんですか?」

成仁「一応、大人だからな。一通りは教えてある」

虹川「えっと……すいません、空気が読めない質問するんですけど」

成仁「何かね?」

虹川「美穂子さんって何歳なんですか?」

成仁「………………」

亜紗子「………………」


 虹川が聞いた瞬間、成仁と亜紗子の表情が崩れた。  亜紗子に至っては口元をハンカチで覆い、完全に笑いを堪えていた。  後ろからもクスクスと笑い声が聞こえてくるが、これは完全に椎名だろうと察しついた。


成仁「ちなみに和幸くんはいくつだと思っていたのかね?」


 声には出していないが目が完全に笑っている成仁から逆に質問された。


虹川「えっと……正直年下かなっと……なので十六歳以下だと思ってました」

成仁「くっくっく……そうか。美穂子はな二十歳だよ。法律上は立派な成人だ」

虹川「――!?」

尋嗣「虹川様、確か美穂子様のこと、ちゃん付けで呼ばれてましたね」

虹川「年齢は聞かなかったし……確かに勝手に決めつけてはいたけど……」

亜紗子「まぁ、あの子も別にそこは何にも言ってませんよ。子供っぽいのも事実ですし」

虹川「やっぱり病気っていうのもあるんですか?」

成仁「成長の度合いというか、確かに人よりは遅かったりするが、まぁこいつを見て分かる通り血筋でもある」

亜紗子「あら、どういう意味ですか?」

成仁「オホン! ま、まぁそういうことだ」

虹川「………………」


 何となく血筋と言うのも分かってしまう虹川だった。  そしてまだここで執事の椎名が横から軌道を修正し、本題へ入る


成仁「美穂子も病気に対しては諦めすら抱いていた。表向きには笑っていたが、心で泣いていたと思う」

虹川「………………」

成仁「少なくても私にはそう見えていた。つい最近まではな」

虹川「最近まで?」

成仁「ある日、突然嬉しそうな顔をして帰ってきた。美穂子の心からの笑顔を久々に見た気がしたよ」

亜紗子「聞けば友達が出来たって言うのよ。次、会う約束までしたって次の病院の日を楽しみになるようになった」

虹川「それって……」

成仁「そう、君と出会ってからだよ。君と出会って、あの子は大分変わった」

虹川「………………」

成仁「正直、医者の話では美穂子はもう長くはない」

虹川「なっ――!?」

成仁「あくまで普通に暮らせるという意味でだがな」

虹川「それって……」

成仁「体が大人になるのを境に病気が進行しやすく、歩けなくなるのも時間の問題らしい」

虹川「そう……なんですか……」

成仁「それを踏まえた上で和幸くんのお願いがある」

虹川「は、はい?」

成仁「残り少ない時間……あの子の……美穂子の傍にいてやってくれないか?」

虹川「え?」

成仁「これは君の気持ちを一切考えていない、私たちのエゴだということは分かっている……!」

虹川「………………」

成仁「だが、私たちはあの子に僅かでいい、幸せを感じて欲しいんだ!」


 成仁は一目見たときから威厳や風格を持っている人物だと思った。  笑っていても言葉一つ一つに重みを持つ人だという印象を受けていた。  そんな成仁が今、この瞬間一人の父親の姿に変わったように感じていた。


亜紗子「和幸くん、勝手なお願いだということは分かってるわ。でも……」

成仁「……和幸くん、どうだろう?」

虹川「……そうですね……」


 そう口にしてから、虹川は顔を落とし口を噤んだ。  少しの間、沈黙が部屋を支配した。  そして虹川は顔を上げ、成仁たちに背を向け部屋の出口に向かって歩き出した。


尋嗣「虹川様、どこへ!?」

虹川「お断りですよ」

成仁「――!」


 虹川の言葉は沈黙を破るには少し刺激が強すぎた。  今度は誰もが口を開こうとして、言葉が出ない……そんな沈黙が部屋を支配していた……  そんな中、何とか言葉を絞り出したのは執事の尋嗣だった。


尋嗣「虹川様、一体どうして?」

虹川「この際なんでハッキリ言いますね」


 虹川は成仁、亜沙子の方を見て真っ直ぐに向いた。


虹川「俺は美穂子さんが望めばいくらでも傍にいたいと思ってます」

成仁「和幸くん……」

虹川「だけどあなた方の頼みだけじゃ一緒にはいられない」

亜沙子「つまり……?」

虹川「美穂子さんの気持ち次第ってことです。美穂子さんが望まないのに一緒になんていれません」

成仁「なるほど……正論だな」

虹川「今から会って話してもいいですか?」

成仁「もちろんだ。椎名、案内してやれ」

尋嗣「分かりました」

虹川「では失礼します」


 部屋を出てすぐ、虹川はその場に座り込んだ。


虹川「あー、緊張した」

尋嗣「ここからが本番では?」

虹川「まぁ、そうですけど……」

尋嗣「では美穂子様の部屋に案内しますね」

虹川「あ、いや、出来れば部屋じゃない方がいいな」

尋嗣「どうしてですか?」

虹川「女性の部屋に行くのはちょっとね。話したいだけだし変に緊張しそう」

尋嗣「ふむ。では裏庭なんてどうでしょうか?」

虹川「あ、あるんだ。じゃあそこで」

尋嗣「分かりました。では呼んできますね」


タッタッタッ


虹川「待った待った! 俺を案内してから!」


 しかし虹川の声も届かず、尋嗣は素早く任務を遂行しにいった。  その後、さ迷い続けた虹川を尋嗣が発見し、何とか裏庭まで行くことが出来た。  そして裏庭で待っている美穂子を見つけた。


虹川「美穂子さん!」

美穂子「和幸くん! って、え? さん? どうしたの?」

虹川「いや、失礼な話だけど年上……なんだよね? ずっと年下だと思ってたので……」

美穂子「何か変だよ。私は気にしてないから前と同じでいいよ?」

虹川「うん、まぁ……じゃあお言葉に甘えて」

美穂子「ところで椎名さんの話では和幸くんが待ってるって話だったけど?」

虹川「うっ……すいません。でもそれは俺が悪いんじゃなくてあの執事が悪いの」

美穂子「どういうこと?」

虹川「俺としてはまず俺をここに連れてきてから美穂子ちゃんを呼んで来てもらう予定だったの」

美穂子「あーそっか。和幸くん、私の家に来るの初めてだもんね」

虹川「ほんと、なんつー家だよ……1、2度来た程度じゃ絶対迷うって」

美穂子「そうだよね。私でもたまに迷うもん」

虹川「………………」

美穂子「もう! 冗談だよ!? 何、その顔は!」

虹川「いや美穂子ちゃんならリアルに有り得そうだから」

美穂子「失礼だよ!」

虹川「くくっ、ゴメンゴメン」


 それからお互い笑い合った。  他愛のないこと、だけどこれが今の美穂子の支えになってると成仁は言う。  虹川は考えていた。本当にこの程度のことでいいのか、と。


美穂子「和幸くん?」

虹川「ん?」

美穂子「そういえばお父さんの用事って何だったの?」

虹川「うん、まぁここに来てもらったのもそれと関係あるんだ」

美穂子「え?」

虹川「君のお父さんから頼まれたんだ。『ずっと君の傍にいて欲しい』ってね」

美穂子「え?」

虹川「何か君のお父さん曰く、俺と会うようになってから君の状態も良くなっていったって」

美穂子「もう……お父さんってば……そんなこと言ったんだ……」


 俯いて少し頬を赤らめる美穂子。  だがその様子に気づいていない虹川は淡々と話を続けた。


虹川「美穂子ちゃん自身はどうなの?」

美穂子「え? えっと……」

虹川「君のお父さんに懇願はされたけど断ったよ」

美穂子「嫌ってこと?」

虹川「違うよ。親がどんなに望んだって本人が望まなきゃ意味がないからね」

美穂子「和幸くんは……?」

虹川「え?」

美穂子「和幸くんはいいの? 聞いたんでしょ、私のこと……」

虹川「病気のことだったら気にしていない。むしろ支えてあげられるのなら支えてあげたい」

美穂子「和幸くん……」

虹川「俺は君のお父さんに言われてから疑問に思ったんだ。俺程度の人間で君に幸せを見せられるかってね」

美穂子「そんなことないよ!」

虹川「だから君の口からしっかりと聞きたいんだ」

美穂子「ふみゅぅ……」

虹川「くくっ」


 これだから年上に見えねぇんだよな、と心の中で苦笑した。  ポンっと頭の上に手を乗せ優しく撫でた。


虹川「俺がお前にいくらでも幸せ感じさせてやる」

美穂子「私……幸せ感じてもいいのかな?」

虹川「誰だって幸せを感じる権利は平等にあるはずだよ」


 そういって後ろから美穂子の首に手をまわす。  その虹川の手を両手で優しく包むように掴む。


美穂子「……うん、そうだよね」

虹川「(パクリだけど、この時ばかりは見逃してくれよな……)」


 虹川の言った言葉はとある小説の一文だった。  『アオの世界』という誰が書いたか明らかになっていない謎の小説。  しかし噂が噂を呼び、知る人ぞ知る名作となっている。


美穂子「僅かな間ですけど、よろしくお願いします」

虹川「バーカ、僅かじゃねーよ。嫌というほど幸せ感じてもらうんだからな」

美穂子「うん、よろしくね!」


パンパンッ


尋嗣「美穂子様、そろそろお部屋に戻られた方が……風はお身体に良くありません」


 タイミングよく執事が登場し、虹川は慌てて離れ、美穂子は複雑な顔で執事を見つめる。


美穂子「……そうだね、分かった」

虹川「(……にゃろ……)」

尋嗣「何かな、和幸様」

虹川「何でもないですよ」


 美穂子を家に招き入れ、それを確認してからまだ外にいる虹川に声をかける。


尋嗣「しかし和幸様は読書するようなタイプには見えませんけどね」

虹川「は?」

尋嗣「私も読みましたよ。『アオの世界』、面白いですよね」

虹川「あぁ……そうなんだ」

尋嗣「今度、美穂子様にも勧めてみましょうかね」

虹川「勘弁してください」

尋嗣「くくくっ。これからよろしくお願いしますね、和幸様」

虹川「あんた、意外と性格悪いみたいだからよろしくしたくないが、様はやめてくれない?」

尋嗣「私は一応、美穂子様専属ですからね。その彼氏様に様をつけないわけにはいきません」

虹川「じゃあ茶化すのやめてくれない?」

尋嗣「なんのことでしょう?」

虹川「………………」


 ここから正式に虹川と美穂子の付き合いが始まった。  家族ぐるみでの付き合いになっていく中、虹川はより美穂子の病気の深刻さを知ることとなる。  そして美穂子は虹川から希望をもらっていく中、ある決心を固めるのだった……


美穂子「和幸!」

虹川「うわっ、ビックリした!」

美穂子「あたし、決めた!」

虹川「何を?」

美穂子「赤ちゃんが欲しい! 産みたいの!」

虹川「…………え?」

美穂子「ダメかな?」

虹川「って、えぇっ!? ちょっと待て、話が飛び過ぎ!」

美穂子「どうしても和幸との子供が欲しい」

虹川「いや、あのな? 俺、まだ高校生だし……」

美穂子「お父さんたちがいるよ!」

虹川「そこまで露骨に頼りたくねぇよ」

美穂子「えぇっ!? どうして渋るの!?」

虹川「普通の反応だ。せめて就職するまで待ってくれ」

美穂子「待てないよ……」

虹川「え?」

美穂子「あたしに残された時間は短いんだよ?」

虹川「美穂子……」

美穂子「だからあたしが生きたっていう証を残したいの!」

虹川「………………」


 美穂子の眼を見て真剣なのは虹川にも分かった。  だが、問題はまだ虹川が高校生ということ。  1人で説得するのは骨が折れそうだと成仁たちに相談することにした。


虹川「ということでして……」

成仁「ふむ……」

美穂子「ね、お願い!」

成仁「美穂子、主治医はなんて言ってるんだ?」

美穂子「えっ?」

成仁「お前の身体で出産出来るのか?」

虹川「そ、そうだよ。出産って凄い負担なんだぞ?」

美穂子「聞いてないけど……」

成仁「じゃあまず聞いてきなさい。話はそれからだ」

虹川「(ふぅ、これで落ち着けばいいけど……)」


 そして次の定期通院日に虹川は美穂子に呼ばれて千葉家を訪れていた。


虹川「すみません、いつもお邪魔しちゃって」

亜沙子「そういう遠慮しないでって言ってるじゃない」

虹川「ありがとうございます」

麗美子「美穂子に呼ばれたんだって?」

虹川「あ、はい」


ガチャッ


美穂子「皆、揃ってる?」

尋嗣「成仁様がもう少し、仕事かかるそうです」

美穂子「もう! こんな大事な時に!」

虹川「いや、無茶言うたんな」


 それから成仁が来るまで他愛のない雑談をして待った。


ガチャッ


成仁「すまん、遅れたか」

美穂子「遅いよ」

成仁「仕事がかかってしまってな。で、話ってなんだ?」

美穂子「先生にね、出産について聞いたの」

虹川「あ、本当に聞いたんだ」

美穂子「あたし、本気だからね!」

成仁「それで?」

美穂子「今の状態が維持出来るなら可能だって!」

亜沙子「逆に言えば……」

麗美子「少しでも悪くなったら危ないってことね」

美穂子「前向きに考えてよ! 出産できるんだよ?」

虹川「そんな危険な橋、渡らせるわけないだろ」

美穂子「なんでよ!?」

成仁「落ち着きなさい、美穂子」

美穂子「お父さん……」

成仁「まだ和幸くんと付き合ってる段階だろ? 和幸くん側の親御さんにも同意を得なきゃいけない」

虹川「はい?」

美穂子「そうだよね……じゃあ、明日にでも!」

虹川「いやいやいや、ちょっと待ってください!」

成仁「どうかしたかね?」

虹川「止めないんですか?」

成仁「美穂子が1番幸せな形を尊重したい。これは常に変わらないからな」

虹川「でも真面目な話をすると結婚もしてないですし、俺、まだ高校生です」

成仁「そうだったな。和幸くん、誕生日は?」

虹川「え? あ、6月です」

成仁「じゃあジューンブライドでちょうどいいな」

虹川「へ?」

成仁「次の誕生日で18歳だろ? 法律上、問題もない」

虹川「いやいやいや!」

美穂子「和幸、嫌なの?」

虹川「嫌とかそういう問題じゃないだろ!?」

麗美子「和幸くん。美穂子と付き合ってる以上、責任は取らないと」

虹川「まだ何もしてませんやん」

麗美子「言いたくはないけど美穂子の将来を考えると躊躇はしてられないの」

虹川「――!」

美穂子「お姉ちゃん……」

成仁「もちろん、さっきも言った通り、和幸くんの親御さんとも話さなきゃいけないことだ」

虹川「……皆さん、本気なんですね?」

成仁「私たちは美穂子の意思を尊重する」

虹川「分かりました。一度、親をこの場に招待していいですか?」

美穂子「和幸……」

成仁「もちろんだ」

虹川「ありがとうございます」


 こうして虹川も覚悟を決めて美穂子の存在を親に喋り、成仁たちと会わせた。  金銭的なことも含め全て成仁たちが責任を取ると約束をして虹川の両親を説得した。  だが虹川の両親も美穂子の状態や決意を配慮し、出来る限り力になると言ってくれた。  これで2人は両家の公認となり、虹川が誕生日を迎える6月まで婚約という形を取った。


虹川「いいのか、俺で」

美穂子「もちろん!」

虹川「分かった。俺と一緒になる以上、幸せ、嫌となるほど感じさせてやるからな」

美穂子「うん!」


 虹川の誕生日である1998年6月10日に誕生日会が開かれ、翌日に婚姻届を出した。  晴れて2人は夫婦となった。


美穂子「後は子供だね!」

虹川「となると主治医にちゃんと話さないとな」

美穂子「そうだね」

虹川「体調的に問題なければいいけど……」


 主治医に相談し、詳しい検査をしながら慎重かつ順調に愛を育んでいった2人。  そして更に1年が経ち、1999年5月。


オギャァッ、オギャアァッ


虹川「――!?」

麗美子「はっ!」


 突如響いた赤ん坊の泣き声に虹川と麗美子が同時に立ちあがった。  そして分娩室から先生がニッコリ笑って現れた。


先生「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」

虹川「美穂子は!?」

看護師「母子共に健康ですよ」

虹川「ふぅ……良かったぁ……」

看護師「お会いできますよ?」

虹川「あ、じゃあ是非」


 看護師に案内され、分娩室に入る。


虹川「美穂子」

美穂子「和幸……へへっ、やったよ」

虹川「あぁ、良く頑張ったな」


 しっかりとした口調で話す虹川に美穂子は安心感を得ていた。


虹川「子供の名前も考えなきゃな」

美穂子「色々候補は……挙げてたけどね」

虹川「ま、今はゆっくり休め。後の楽しみだな」

美穂子「……ねぇ、和幸」

虹川「ん?」

美穂子「私、まだ生きてていいのかな?」

虹川「ばーか」


コツッ


美穂子「痛っ」

虹川「先の未来を信じるから今を紡いで生きているんだ」

美穂子「……それは和幸の言葉?」

虹川「え?」

美穂子「椎名さんから聞いたよ? 似たようなこと聞いた時の言葉、小説の台詞だったんでしょ?」

虹川「(あんの執事めぇ……)」

美穂子「クスッ、どっちでもいいか。ありがと」

虹川「今度は俺の言葉だからな!」


 必死に弁明する虹川を余所に疲れがピークに達した美穂子はゆっくり目を閉じた。


麗美子「お父さんたちに連絡したわ。すぐ来るそうよ」

虹川「そうですか」

麗美子「これで美穂子の夢がまた1つ叶ったのね」

虹川「そうですね」


 虹川と知り合い、結婚をし、そして今回の出産。  美穂子はこの数年、本当の意味での幸せを噛みしめていた。  しかし、主治医が予め告げていた通り、20歳を超えた美穂子の身体は確実に衰えを始めていた。


ガクッ!


美穂子「え?」


ドサッ!


 思うように足が動かず転んでしまう。


虹川「美穂子!」

美穂子「あ、あれ、おかしいな……」

虹川「立てないのか!?」

美穂子「う、うん……力が入らない……」

虹川「くっ、掴まれ。病院に行くぞ」

美穂子「ご、ゴメン」

虹川「謝るな。お前が悪いわけじゃない」


 虹川は成仁たちに連絡した。  そして飛ぶように執事の尋嗣が迎えに来た。


尋嗣「美穂子様!」

虹川「椎名さん、病院までお願いします」

尋嗣「分かりました!」


 美穂子はすぐに検査も兼ねて入院することになった。  これが2000年6月、結婚をして2年後の出来事だった。


主治医「美穂子さんの身体は予想より早く、衰えを始めています」

虹川「何とかならないんですか!?」

主治医「決定的に何かがあるわけじゃない病です……」

虹川「そんな……」

成仁「和幸くん……」

主治医「とにかく進行を少しでも遅らせるために入院してください」

成仁「分かりました」


 美穂子は入院することになった。  虹川たちは大したことないと美穂子には言っていたが……  自分の身体は自分が……美穂子自身が良く分かっていた。


美穂子「先生」

主治医「ん?」

美穂子「お願いがあります」

主治医「なんだね?」

美穂子「青南波優都くんへの臓器移植、適合するか調べてほしいんです」

主治医「――!」

美穂子「もう、あたし、長くないんですよね?」

主治医「………………」

美穂子「もう歩くことすら出来ない。前の先生の話だとこのままでは臓器もやられるんですよね?」

主治医「生体肝移植を望まれると?」

美穂子「それもありますが優都くんに必要な臓器、角膜全て提供する想いです」

主治医「それは不可能な話だ」

美穂子「なんでですか?」

主治医「臓器移植は脳死となってしまったドナーから提供されるんだ」

美穂子「分かってます」

主治医「それだったら……」

美穂子「とにかく検査だけお願いします」

主治医「……分かった」


 虹川や成仁たちには内緒で美穂子は適合検査を受けていた。  そしてその結果は適合するものだった。  美穂子は検査結果を受けた日に執事である尋嗣を呼んだ。


コンコンッ


美穂子「どうぞ」

尋嗣「失礼します」

美穂子「すみません、お呼びしちゃって」

尋嗣「構いません。それで何でしょうか?」

美穂子「今、言うことは他言でお願いします」

尋嗣「美穂子様……?」

美穂子「いいですか?」

尋嗣「……分かりました。なんでしょう?」

美穂子「拳銃、用意してくれませんか?」

尋嗣「…………はい?」

美穂子「あたしは優都くんのために臓器を提供します」

尋嗣「――なっ!?」

美穂子「察しのいい椎名さんならもう分かりますよね?」

尋嗣「な、なりません! そんなこと!」

美穂子「お願いします。あたしの最後のワガママです」

尋嗣「美穂子様……いえ、こればっかりは聞けません」

美穂子「椎名さんはずっとあたしのワガママ聞いてくれたじゃないですか」

尋嗣「ワガママの度を超えてます!」

美穂子「お願い!」

尋嗣「和幸様、浩輔様はどうするおつもりですか?」

美穂子「あたしはどうせ長くないわ」

尋嗣「――!」

美穂子「せめて元気なうちにあたしは初めてのお友達を助けたいの!」

尋嗣「美穂子様……」

美穂子「お願い、椎名さん。今、あたし、とっても幸せなの」

尋嗣「でしたら!」

美穂子「幸せを感じたまま逝きたいの! せめて最後ぐらい人の役に立ちたい!」

尋嗣「美穂子様は十分、人の役に立ってきました」

美穂子「そんなことない……迷惑ばっかりかけてきた……」

尋嗣「とにかくそんなこと2度と言わないでください」

美穂子「椎名さん、だったらあたしは別の方法を考えるだけ」

尋嗣「――!」

美穂子「最後の最後まで椎名さんはあたしの執事だよね?」

尋嗣「……ズルいですよ、美穂子様」

美穂子「えへへ、ダメ?」

尋嗣「……断れるわけないじゃないですか」

美穂子「……ありがとう」

尋嗣「でも本当にいいんですか? ギリギリまで生きて、和幸様と浩輔様と過ごす道だってあるはずです!」

美穂子「そう……かもね。でも優都くんももう危ないみたい。あたしが死ぬことで助けられるなら……」

尋嗣「……覚悟は決まってるわけですね」

美穂子「うん」

尋嗣「分かりました。私は最後まで、あなたの執事です」

美穂子「最高の執事だったよ」

尋嗣「勿体ないお言葉です」


 尋嗣は美穂子のお願いを聞き入れで拳銃を手に入れた。  そして2000年7月、運命の日。


尋嗣「美穂子様……」

美穂子「椎名さんが出て行って30分後、決行するね」

尋嗣「別にいいですよ。自殺教唆で捕まっても」

美穂子「出来れば私の意思だけで……」

尋嗣「美穂子様が拳銃持ってる時点で私がすぐに疑われます」

美穂子「そう、だよね……」

尋嗣「大丈夫です。あなたが決意したのなら私も従うだけです」

美穂子「いいの?」

尋嗣「言ったはずです。私は最後まであなたの執事だと」

美穂子「椎名さん」

尋嗣「主人の命令は絶対。遠慮なく命令してください。私はあなたのためならそれこそ死ぬ思いです」

美穂子「ありがとう。椎名さんが執事であたし、本当に良かったよ」

尋嗣「私もあなたに仕えることが出来て良かったです」

美穂子「じゃあ、お言葉に甘えてお願いしちゃおうかな」

尋嗣「……撃たれたらすぐに先生を呼び、処置をしてもらう、ですね」

美穂子「えっ?」

尋嗣「全身死せずに脳死で留め、臓器を取り出す。そのための私はパイプ役ですよね」

美穂子「……凄いね、分かっちゃうんだ」

尋嗣「最高の執事ですから」

美穂子「これ、遺言書。ここに置いとくね」

尋嗣「……では私はこれで」

美穂子「椎名さん!」

尋嗣「美穂子様……私はあなたが主人で幸せでした」


 流石の尋嗣も感情を抑えきれず、声が震えていた。  そして目元を抑え、病室を後にした。


美穂子「ごめんなさい、最後まで迷惑かけちゃって……」


  病室の一室に美穂子だけとなった。


美穂子「和幸……浩輔……」


 昼だがカーテンを閉め切っていて薄暗い中、美穂子はゆっくりと拳銃を持った。


美穂子「ゴメンね、浩輔……私、もう限界みたい」


 涙を流しながら必死に訴える。  そこには美穂子以外誰もいないというのに……


美穂子「和幸、私幸せだったよ。たくさん、幸せ感じたよ」


 涙を流しながら微笑んだ。  そこに虹川はいないけど、目の前にいるように必死に……


美穂子「浩輔……ゴメンね……和幸……ありがとう」


 静かに目を閉じ、一滴の雫が零れ落ちた。


パァンッ!


 1発の銃声が病院内に響いた。


尋嗣「美穂子様……!」


 パニックに陥る患者や看護婦をよそに1人だけ状況を把握している尋嗣。  素早く的確な指示で医者や看護婦を動かす。  そして事態が落ち着きを見せた頃、尋嗣からの連絡で虹川や成仁が病院に来た。  虹川たちは主治医や警察から事情を聞いた。


虹川「どういう……ことだよ……」

尋嗣「和幸様……」

警察「遺書もありましたし、自殺で間違いありません。しかし……」

虹川「拳銃……」

警察「そうです。そちらの方については調べてみます。後、これを」

虹川「これは?」

警察「遺書みたいです」

虹川「――!」

警察「ではまだ調査中ですので」


 そう言われて病室を半ば追い出された。  呆然としながら虹川は遺書を読んだ。  そこには美穂子の感謝の言葉が綴られていた。  そして優都への移植を望んでいることもしっかりと……


亜沙子「あの子……」

虹川「……移植……」

麗美子「移植のこと、私も相談受けてたわ」

虹川「えっ!?」

麗美子「まさか、本気で考えてるとは思わなかったけど」

虹川「あ、じゃ、じゃあまず先生に言わないと」

尋嗣「すでに言いました。処置してくださってます」

虹川「そ、そっか……」

成仁「椎名」

尋嗣「はい」

成仁「お前だろ? 拳銃を手に入れ美穂子に渡したのは」

虹川「――!?」

亜沙子「えっ!?」

麗美子「椎名さん!?」

尋嗣「そうです」

成仁「………………」


ガッ!


虹川「なんでそんな真似したんだよ!」


 間髪入れずに虹川が尋嗣の胸ぐらを掴む。


尋嗣「私は美穂子様の執事です。あの人が望むことを叶えるのが私の仕事ですから」

虹川「ふざけるな!」

尋嗣「ふざけてない!」

虹川「――!」

尋嗣「止めることも陳腐な言葉を言うこともいくらでも出来た!」

虹川「だったら!」

尋嗣「だがあの人の決意は固かった!」

虹川「ぐっ!」

尋嗣「だったらせめて望まれることを叶えてあげたい、それしか俺には選択肢がなかった!」

虹川「椎名……さん……」

成仁「椎名……」

尋嗣「覚悟だって出来てます。警察に行くのも全部承知の上で私は美穂子様の考えに賛同しました」

成仁「……分かった」

尋嗣「……でも謝りません。私は美穂子様の執事として仕事をしたと思っていますから」

成仁「ふふ、惜しいな。謝ったら殴ってやろうと思ってたんだが」

尋嗣「……え……?」

成仁「和幸くん。バカな娘と執事、そして親父でスマナイ」

虹川「お義父さん?」

尋嗣「ま、まさか……」

成仁「知っていたよ。お前が拳銃をあるルートから手に入れていたことはな」

尋嗣「――!」

成仁「そして主治医から移植適合検査を希望していることは内緒で聞いていたからな」

虹川「でしたら!」

成仁「ここまで本気とは思えなかった。いや、思いたくなった」

亜沙子「あなた……」

成仁「だが起きてしまった以上、今は優都くんが助かることを願おう」

虹川「ぐっ……そんなことって……」

麗美子「和幸くん……」

虹川「そんなバカな話があるかよ!」


ダッ!


 虹川は病院の外に出て美穂子と2回目に会った……再会を果たした花壇のところに来た。  そして左手に握っていた遺書を再び開いた。  読んでいて自然と涙を流していた。


尋嗣「……和幸様」

虹川「……なぁ、アオの世界、読んだんだよな?」

尋嗣「え?」


 尋嗣が近づいてきたのが分かり、虹川は涙を袖で拭って尋嗣の方を見て質問した。


虹川「この空の下、あなたには帰る場所はありますか、か」

尋嗣「和幸様……」

虹川「だーめだ。美穂子が望んだ形でも俺は納得出来ねぇ」

尋嗣「普通、だと思います」

虹川「あんたは普通じゃなかったってことか?」

尋嗣「そうでしょうね」

虹川「1発、殴らせてくれ」

尋嗣「……何発でも」


バキィッ!


虹川「くそっ……ちくしょう……!」


 虹川は1発椎名を殴り、そして泣き崩れた。  椎名は何もできず、その場に立ち尽くし、空を見上げた。  そんな椎名の目からも涙がスッと流れてきていた。


虹川「ふぅ……」


 散々泣いて泣いて泣きまくった虹川は数分後、ようやく落ち着いた。


虹川「椎名さん」

尋嗣「はい?」

虹川「俺はあんたを一生恨み続ける。覚悟しろよ」

尋嗣「……分かりました」

虹川「くくっ」

尋嗣「ふふっ」


 2人は自然と笑顔になった。  そんな中、病院から麗美子が急いだ様子で出てきた。


麗美子「あ、和幸くん! 椎名さん!」

虹川「麗美子さん」

麗美子「優都くんへの移植手術、始まるみたい!」

虹川「――!」

麻衣子「あ、あの……」

虹川「あ、優都くんの……」

麻衣子「はい、母親の麻衣子です。この度は何て言ったらいいか……」

虹川「すみません、ハッキリ言って俺自身、整理がついてないので何も言えないんですが」

麻衣子「あっ……」

虹川「でも美穂子が望んだ形に今、なろうとしてます。せめてあなただけでも優都くんのこと想い続けててください」

麻衣子「しかし……!」

虹川「優都くん、助かるといいですね!」

麗美子「和幸くん……」

尋嗣「和幸様……」

麻衣子「すみません……ありがとうございます……!」


 こうして美穂子は幸せのまま逝き、優都に全てを託した。  美穂子にしても必死に未来を紡いだ結果と言える。  誰もが納得できる未来ではなかったが少なくても美穂子は幸せでその未来を選択した。  そしてそれを虹川たちも徐々にでいい、受け入れていこうと決めたのだった。


虹川「すみません、お義父さん。お願いがあります」


 時が経ち、虹川も大学4年生になり進路を決める立場になった。  虹川はアメリカに留学したいと成仁に相談を持ちかけていた。


成仁「水臭いな、和幸くん。私が断ると思うか?」

虹川「大学入ってすぐ、友人のお願いでお金出してもらってますし」

成仁「あれだって元は優都くんの手術費用だろ? 断る理由がない」

虹川「はは、そうですよね」

成仁「しっかりフォローはさせてもらう。だから好きにしなさい」

虹川「ありがとうございます」

成仁「私から……そして美穂子からのお礼だと思ってくれればいい」

虹川「お義父さん……」

成仁「当時は高校生の君に無理なお願いをしたしな。足りないかも知れないが千葉家からの恩返しだ」

虹川「いえ、十分過ぎます。ありがとうございます」


 成仁のバックアップもあり、虹川のアメリカ行きもすんなり決まった。  大好きな野球をしっかり勉強し、色んな形で携われるように……  またアメリカ行きを決意したのは浩輔の存在も大きかった。  虹川は美穂子が残してくれた浩輔と一緒にいる時間を増やしたい。  そのために成仁たちに甘え、子育てに勉強に奮闘する道を選んだのだった。


優都「……――探偵事務所、ここか」


 更に時が経って2003年春。  健康体になって……そして高校生となった優都がある探偵事務所を訪れる。


コンコンッ


ガチャッ


??「はいはい?」

優都「えっと探偵事務所であってます?」

??「そうですよ。所長ー、お客さん」

??「ん、中に入ってもらえ」

??「だ、そうです。どうぞ」

優都「失礼します」

??「それで、何の御用かな?」

優都「実はあるものを探してまして……」

??「それは?」

優都「ぼくの記憶を探しています」



The next story is a memory.



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