今、ユニフォームに身を包んだ男性の前に一人の女性がいる。 腕からは赤い液体を流し、つらそうな表情をしている。 それは男性にとって大切な人が目の前で傷ついている。 それなのに何もしてやれない……なぜこうなっているのかすらわからない。 男性は無力だと嘆いた……一人の女性を……大切な人を守ることすらできないなんて、と。 「なにを考えている?」 冷たく突き放す言い方も懐かしく思え彼はつい笑ってしまった。 「ちょっとね。タマちゃんと会ったときのことを思い出しちゃってね」 彼の目の前にいる女性、彼は彼女、埼川珠子からタマちゃんと呼ぶように言われていた。 別に本名とは思っていなかったが彼女とは一度別れ、後に偶然会ったときそれは偽名であると知った。 「私は覚えてないな。会ったときのことなんて」 「僕は忘れないよ、絶対に」 互いの出会いは大して運命的でもなければまるで現実味もない。 ただ偶然夜の街を歩いていて呼び止められた、「おい、そこのユニフォームを着て歩いている恥ずかしいお前」と。 それから何度か占いをしているところに足を運び、次第にデートするようになった。 「そんなこともあったな」 白々しく言うタマちゃんに彼は覚えていることを確信した。 付き合ってきて分かったことは素直に口にしないということ。 そして自分の気持ちを隠すときは皮肉ぽくなること。 「な、なんだその疑いの目は」 「別に〜」 「ったく」 目を細めニヤけている彼に完全に心を読まれていることを知り少し照れくさくなった。 もう少しこんな会話を続けるのも悪くはなかった。しかし時はそれを許してはくれない。 腕の痛みも次第に激しくなっていき、珠子は自分が今したいことをすることにした。 こんな廃墟に珠子にとっても大切な人を呼んだワケを。 「如月、力を抜け」 そう言って彼の首に手を回し肩を持つ。端から見れば抱きついてるように見える。そして彼もそう思っていた……が。 「あの……今すごい音しませんでした?」 それは言葉にできないほど鈍く明らかに何か外れるような音のように聞こえた。 「ふむ。肩の関節を外したからな」 珠子の発言に一気に血の気が引いた。そして幸せな気持ちから一転、頭の中はパニックに陥っていた。 「え、え、え?」 「動くなよ。動いたら二度と戻せなくなるからな」 そういって手を肩から次の関節に移す。 「ギブギブ、やめて。キャメルクラッチはダメ〜!!!」 廃墟に如月の声が響きわたったが、しかし珠子は行為を止めず結局最後までやり遂げた。 如月に残ったのは今五体満足で自由に体が動く安堵感だけだった。 「今、お前は新たな力を手に入れた。だがそれを生かすも殺すもお前次第だ。精進するんだぞ」 「……タマちゃん、君はなぜそこまでして俺に? そんな傷を負ってまで……」 「約束したはずだ。必ず力になるはずだと」 たしかに約束はした。だがそれは迅雷コーチとの約束だった。埼川珠子との約束ではない。 結果として一緒かも知れないが本人の口から聞いた今でも信じれないでいた。 迅雷コーチとは如月が所属しているプロ野球チームのコーチだった人だ。 仕事場では迅雷として、プライベートでは珠子として如月のことを見ていたという。 聞かされただけでなく、目の前で変装を見せられそれは確かに迅雷コーチで、解いた後の姿はまさしく珠子自身だった。 これでは信じられなくても真実としか思えなかった。 「タマちゃん、もう君が傷つくの見たくないよ」 如月は腕から点滴のように地に落ちる血を見ながら行った。 「安心しろ。私はもうお前の前に現れない。見ることはないさ」 相変わらずの皮肉っぷりだが今の如月は真剣で珠子らしい言葉も聞き入れることができなかった。 「タマちゃん、逃げよう。一緒に追っての来ないところまで」 珠子は止血の甘かったところを締め直していた。 珠子の名を呼ぶ如月の声がまた廃墟に響いた。 ため息一つ吐き珠子はゆっくりと首を左右に振った。 「私は元々抜け忍なんだ。そして今までずっと逃げてきたんだ。追っ手が来ないところなんてないさ」 そのとき、パッと片膝をつき懐から素早くクナイのような物を取り出し、投げる。 ふつうの人は何を投げたか? 今何かが飛んできたか? その程度にしか思えないほど素早い動きだった。 「え、タマちゃん?」 如月が問いかけると同時に後ろから何かが倒れる音が聞こえてきた。 振り向くと、何度か見かけた忍者がいた。手には手裏剣があり、如月がその忍者を見たときはもう息絶えていた。 驚きから声を出せないでいると珠子が淡々と喋りだした。 「ち、始末したと思ったが」 「た、タマちゃん……」 目の前で人が息絶えた姿を見て、如月は小刻みに震えていた。 平然としている彼女を見て、どれだけの修羅場を乗り越えてきたのか……如月では想像すら出来なかった。 「だがこれで分かっただろ。逃げても無駄なことが」 如月は口を開こうとはしなかった。頭では珠子が言ったことが正しいのはわかっていた。ただ認めたくないだけだ。 珠子と一緒にいることしか考えられない、離ればなれになるなんてそんな現実を受け入れたくはなかった。 「如月、分かってくれ。私だってお前と共にいたいんだ」 今まで珠子の目を見れずに俯いていた如月が顔を上げ、珠子の目を真っ直ぐ見た。 「タマちゃん、前言ってたよね。埼川珠子は偽の名前って。そして次会ったら本名教えてくれるって」 「……鈴霞」 「え?」 「私の本当の名前だ。二度も言わないぞ」 「鈴霞……いい名前だね」 「親族以外に呼ばれるのは何だか恥ずかしいな」 それは珠子が如月の前では初めて見せる表情だった。 「それじゃお別れだ。もう二度と会うこともないだろ」 如月が声を出す前に珠子は目の前からいなくなっていた。 「お別れもまともに言わせてくれないんだね……」 今までの珠子との思い出が鮮明に思いだされ、目から一滴の雫が流れ落ちた。 そして自分では止めようのないくらい、意志と反して流れ落ちていった。 「タマちゃ――ん!」 悲痛な叫びが今まで以上に廃墟にコダマした。 翌日、如月に届いたのは迅雷コーチが辞めた知らせと一通の手紙だった。 「えっ! 迅雷コーチやめたんですか?」 技術コーチと言う一風変わった名称の手久野コーチから聞かされ、やはり昨日のあれは夢なんかじゃなかったと思い知らされた。 どうやら辞表届が送られてきたらしく、誰も彼の姿を見たものはいない。 如月が見た彼女が最後だった。 「あぁそうだ。おまえ宛にも手紙が来てるぞ」 そう言い手久野コーチはポケットから茶封筒をだし、如月に渡した。 如月は受け取り、グラウンドの隅に行く。ただ誰にも邪魔されず迅雷コーチの……いや珠子の手紙を見たいと思ったからだ。 茶封筒から手紙を取り出す。第一になぜ茶封筒と思ったが、裏返してみたらあっと言う間に解決した。 そこには辞表届と書いてあり、手久野コーチが渡す時に見せなかったのは一つの優しさかも知れない。 仮にも好きな男に送る手紙を茶封筒に入れ、しかも辞表届のついでのように送る珠子に呆れながらも逆に珠子らしいな、とつい笑みがこぼれた。 そして気を取り直して、如月は四つ折りになっている一枚の紙を広げ、中に書いてある珠子からのメッセージを読み始めた。 『如月、お前はどんな絶望的な状況にも決して諦めず、獅子のように立ち向かうのだな。 そんなお前と、コーチとして女として、共に歩めたのを誇りに思う。さて次は私の番だな。 私も逃げ回るのをやめ、自分の過去に立ち向かってみようと思う。 もし生きて再びお前のもとに帰ってくることができたら、その時は私を本当の名前で呼んでくれるか? なぁ如月』 「ははっ、らしくないねタマちゃん」 手紙を読み終えた如月の目からは一粒の雫が流れ落ちていた。 「どうしたでやんす?」 そこにメガネをかけた同僚の凡田が話しかけてきた。 グラウンドの隅で手紙を読んで涙を流していれば気になるのは当たり前かも知れない。 「ううん、何でもないよ」 明らかにどうかした様子に見えるが、それを誤魔化すあたり言えない事情があると凡田は察した。 「そういや、迅雷コーチやめちゃったみたいでやんすね」 「そうみたいだね」 「オイラのこと縛って、如月くんの修行の的にさせられたり良いことなかったでやんすが……」 軽くタメを作る。如月はそんこともあったなと思い出していた。 「いなくなると寂しいもんでやんすね」 「……そうだね」 凡田の言葉にそう返すのがやっとだった。 この如月の生気の抜けたような目をみて凡田は嫌気がさし無理矢理手を取りグラウンドの中へ引っ張りだした。 「さぁ何があったか知らないでやんすが、今日から日本シリーズでやんす。気を引き締めて行くでやんす」 「ちょっ! 待って凡田くん!」 「そんなんじゃ迅雷コーチに合わす顔ないでやんすよ」 「え?」 「如月くんが今までお世話になってたのは紛れもなく迅雷コーチでやんす。最後の最後、必ず見てくれてると思うでやんす。それなのに、そんな顔してたらダメでやんすよ」 「………そうだね。うん、やるよ凡田くん!」 あれ以来、如月は珠子と会ってない。 でもたまに、スポーツニュースを見てると電光掲示板の上で人影のような黒い残像が争っているのを見る。 それが多分、迅雷隼人こと埼川珠子だと少なくても如月はそう思っている。 きっと近くで見守ってくれている。そう思い、如月は今日もバットを振り続ける。 そして如月は彼女との思い出にサヨナラを告げ、それぞれ道を歩き出す。 いつの日かまた出会えたら、新たな思い出を作るために…… 〜Fin〜 |